現在国内外で生活空間のスマート化・DX化が急速に推し進められ、社会に正負様々な影響を及ぼし始めている。中でも本研究はリアルとバーチャルなWE(人間関係・絆・共同体)の貧困化というWE問題に焦点を当て逆にWEを再活性化するスマート化・DX化の処方箋を描く。
ここで言うWE問題とは、正確には、いかにしてリアルな生活環境での人々の絆の弱体化・人間関係の希薄化とバーチャル空間におけるスマートモビズム(群衆化)の蔓延(ヘイトトークの跋扈・フェイクニュースへの脆弱性)を防ぎ、リアルなWEを豊穣化しバーチャルなWEを健全化すべきかという課題である。本プロジェクトは人間・社会観の人文学的深掘りと文理・産官学連携による実証研究を密接に連関させることで、この課題に答える。
「WE問題」について
WE問題の一因は、人間を「できる存在」とし、その本質・尊厳を自律性や自己決定性に置くカント的人間観、そのような個人の「できること(能力・機能)」の最大化を目指すヘーゲル的社会観に代表される西洋近代の価値観にあると本課題は見る。このような考えでは、コミュニティの重要性が強調される場合でも、常にそれに先立って自足的・自立的に存在する「WEなしに一人で生きていける個人」が想定され、そのような裸の私を利益の中心に据え続ける私中心的WEが想定されている。このような価値観は20世紀を通じてグローバル・デファクトスダンダード化し世界人権宣言やSDGs等に見られるように国際的な公式見解とされている。
このような自足的個人の神話は、個人の能力の「エンハーンスメント・エンパワーメント(機能強化)」というスマート化の謳い文句によってさらに増幅されつつあるが、この神話の増悪化は以下二つの現象において集約的に看取できる。(1)スマートアトミズム:インターネット個人端末によって社会的に自然な分子状態(WE)から切り離され、「私」という遊離原子化された個人が、リアルなWEの重要性・必要性を過小評価しつつ、バーチャル空間に投げ入れられているという事態。(2)肥大主人化:スマート化の一環として、自律性のみならず、人格を持つかのように振る舞う動作性、即ち「e-人格性」も持つ(AI・ロボット・デジタルツイン等の)人工物(「e-ひと」)が社会実装されつつある。欧州では、個人の自足性を重視するあまり、このような「e-ひと」を「奴隷(所有物)」視する見方が示されている。裏返せば、常に複数の「奴隷」を従えた「過剰に自尊化し肥大化した主人」という個人像が提案されているのである。結局スマート化によって、肥大化した原子という個人観が社会に浸透しつつあることで、上のWE問題が惹起されているのである。
このような流れに抗して、本プロジェクトでは、東アジアなど非西洋の思想伝統に注目し、そこから「できなさ」を基軸とする人間観や(私を含め)どのような個人をも中心に据えない脱私中心的WE観、さらには非自足的な者同士の相互委譲のネットワークとしての社会観などのオルタナティブな人間・社会観を析出することで、スマート化によって増悪した西洋的人間・社会観を非自明化・相対化・問題化すると共に、そのオルタナ価値観に基づいたWE問の解決策を提案する。具体的には、(1)スマートモビズムを回避するため、「単なる見物者としてのWE」ではなく、合意し行動するWE(WEアクター)をリアルとバーチャルを貫いて再確保することを目指し、「e-ひと」をファシリテータとする合意形成支援ツールの開発に関与し、福井県越前市をフィールドとしてその実証実験を行う。(2)(固定的で閉じたWEではなく)流動的で開かれたWE(モバイルWE)のリアル世界での再活性化を志向し、小田急が沿線に実験的に設置する人流滞留スポット(溜まり場)を舞台として、「e-ひと」をメディエータとする人的交流支援ツールの開発とその効果実証を行う。(3)これらの実証実験を通じて、「e-ひと」と人間との関係性に関して「主人-奴隷」モデルとは一線を画すフェローシップ(対等的仲間性)に基づいた新たなモデルを提案する。
研究内容・計画
本研究は人文社会学の根源的・原理的問題に関するブレークスルー、具体的には東アジアを中心とするアジアからのオルタナティブの構築による人間観・社会観の脱西洋一極化・多層化とスマート化・DX化が齎すWE問題という現代的課題の解決策の提示を相互反照的に遂行する新たな人文社会学のパラダイムを学界と社会に発信するため、以下のような方略を採用する。
価値観の多層化
同じ思想伝統に留まる限り「人間とは何か」「どのような社会を作るべきか」といった人文社会知の最大級の問題に関わるブレークスルーは困難である。そのため本研究は現代知の主流である西洋近現代思想とは一線を画す(東)アジアの価値観を参照し上記の問題に対するビッグオルタナティブを探る。だがこれは(東)アジア的伝統の無批判な継承を意味しない。本プロジェクトは(東)アジア思想を21世紀の人類的価値観へと鍛え上げることをも目指すのである。また現実の社会は一枚岩ではなく多様な価値観が積み重なった多層体でもある。そこで本研究も、西洋思想を安易に否定しアジア思想を称揚する「あれかこれか」式の二者択一は避け、価値観の選択肢の豊穣化を通じて、価値観が多層的に共存している価値多層的社会の実現を目指す。
学の実践的統合
事実の記述・説明を目指す自然科学と異なり人文社会学は価値の提案の学である。だが近年人文社会学も通常科学化が進み、蛸壺的細分化と価値提案力の減退に見舞われている。これに対し本研究は、WE問題の解決という複数の領域の共同作業が不可避となる多面的な社会課題と向き合うことで人文学本来の分野の壁を超えた価値提案力を取り戻す。
理念から具体策までの通貫的アプローチ
本研究は、WE問題を軸に、新たなオルタナ価値観の提示という普遍的な理念的次元から、課題解決のための具体的ツールの開発・実証という現実に密着した次元までを一気に通貫するワンストップの提案を行う。そのため本研究はWE問題の発生現場を(1)バーチャル空間における「無責任な見物者としてのWE」の過剰繁茂と「責任を持った合意・行為者としてのWEアクター」の稀少化、(2)リモートワーク・eコマースの浸透によるリアルな人流とそれに伴う人的交流の貧弱化という二局面に絞り、それぞれに即して、WEのよりよいスマート化に資するためのスマートツールの開発とその効果の検証実験を、福井県越前市と小田急沿線という具体的なフィールドを確保して実施する。
5次元共創体制
本研究では以下のような多様なバックグランドを持った参加者が結集するプロジェクト体制を構築する。(1)哲学・倫理学・法学を中心とするアカデミアの人文社会学研究者、(2)情報工学・数理科学等を研究するアカデミアの自然科学者、(3)日立京大ラボ・小田急電鉄を始めとするスマート化・DX化を推進する企業研究者、(4)福井県越前市・小田急沿線などの地域住民・NPO・自治体からなる現場のステークホルダー、(5)東アジア・東南アジア等海外の人文社会学者・IT技術者・IT起業家。またこれら多様な参加者間の密接な共創体制を担保・維持するため、本研究では上記5つの次元全てから人材を結集した統括グループを置き、その内部での日常的議論を通じて次元間で異なる語彙・方法論・スタイルの摺り合わせを図る。また統括グループは原則的に他のグループの全ての活動・会合に参画することで、グループ間の調整や交流を促進する。さらに人文系若手研究者を日立京大ラボに常駐させると共に次元を異にする参加者間の議論のコーディネーター役を果たさせることで、グループ間連携の更なる緊密化と共創的人文学の次代を担う人材の育成をも図る。